レーベルプロデューサーあつしの自己紹介
2017年11月10日 17:23
| ネット時代のミュージシャン論
みなさまはじめまして。
syncle musicのレーベルプロデューサー

ほしのあつし44才です。
普段は普通の会社員。家に帰れば双子のおてんば娘の父親。
そんな私がインディーズレーベルを作るにいたった経緯を
わたしの過去と音楽活動の歴史とともに紹介していきたいと思います。
007が好きになった小学生時代
チビでクロンボだった小学5年生の時、
なぜか父親にせがんで映画館に連れて行ってもらった映画があります。
それは『007/オクトパシー』という映画。

スーパーカーブームの頃にテレビでみた007に出てきた潜水艦になるロータスエスプリが
幼いながらも強烈な印象に残っていたのがそもそものきっかけだったと思います。

強烈な印象を与えた水陸両用のロータスエスプリ
幼少時のインパクトはその後の人生にも十分影響を与えることがありますが、
私もそのインパクトを引きずりながら成長して今では立派な007マニアに育ち上がりました。
ポップミュージックとの出会い
高校生になり当時最先端の音楽メディアであるCDが登場。
音楽といえば007のサントラを聴き始めてはみたもののやっぱり歌がないと面白みが足らない。
そこでサントラからの流れで007の主題歌を歌っているアーティストのCDを聴いてみることに。
聴いたのは「a-ha」と「デュラン・デュラン」。

これはもうガツーーンと来ましたね。まさに人生の一大転機。
特にa-haの『TAKE ON ME』。
そしてデュラン・デュランの『PLANET EARTH』と『グラビアの美少女』。
今でもポップ・ミュージックでこの曲達を超えるものはわたしの中にはありません。
初めて聴いたときからなんか聴くのが自然だったようなどこか懐かしいような。
たまたまの流れで聴き始めた80'sポップスでしたが、
生まれつき持っていただろう趣向とピッタリとマッチした瞬間でした。
今度はYMOとの出会い
高校2年生の頃はそれはそれは空前のバンドブーム。
それこそ老若男女、学生も大人も坊主もみんなバンドをやった時代。
深夜眠い目をこすりながら「イカ天」を観ては「自分で曲を作りたい」って漠然と考えはじめていました。
ちょうど同じころ「CDでーた」という今はなき雑誌でYMOの特集記事を見ました。

YMOというのは全然当時知らなかったのですがなぜか心に引っかかるものがあり、
うちの兄貴にYMOって何?って聞いたら「雷電と胸キュンだよ」って教えてくれました。
ベストテンとかをよく見ていたので『君に胸キュン。』やライディーン(雷電)のメロディーはすぐに思い出せましたが、
なぜか理屈抜きにこの時に
「YMOは絶対に聴かなくてはならない」
って思ったんです。 ・・・・理由はなんでだかわかりませんが。
今思えばたぶんそこに運命的なものを感じたからなのかもしれません。
それで急いで買ってきたのが2枚組ベスト盤CD『SEALED』。

そしてこのとき知ったシンセサイザーという楽器の音こそが、
a-haやデュラン・デュラン、YMOに共通していたピコピコしている電子音であり、
私が生まれつき持っていたであろう心に響く音の趣向の正体だったんです。
高校3年生はじめてバンドを結成
当時わたしには謎の楽器だったシンセサイザー。
実は昔からの友達のKくんが所有しユニコーンのコピーをやっていると判明。
しかもご好意によりお試しとして貸してもらえることになった。
そのとき借りたシンセがROLANDのD-20というオールインワン・シンセサイザー。

オールインワン・シンセサイザーとは、
シーケンサーとドラムマシンを内蔵しそれ1台で演奏が作れてしまうというタイプのもの。
それからは説明書を見ながら独学で曲を作り始めました。
音楽を聴く前はずっと自分で映画を作りたいと思っていましたが、
映画を作るには人を何人も集めなければなりませんし、
当時のビデオカメラは高額だったため高校生に買えるような代物ではありませんでした。
ところが音楽ならばこのシンセ1台で一人で曲が作れてしまう。
このときは寝る間も惜しんでシンセサイザーに熱中して、
はじめてとなる4曲入りのオリジナルテープを一気に完成させました。


はじめて買ったシンセはYAMAHA V50とEOS YS100。
まだカセットMTRの古き良き時代です。
そしてシンセを貸してくれたKくんの誘いで二人でバンドを結成しライブにも出演。
そのときの演奏はユニコーンとYMOのコピー。
私が打ち込みを流しながらシンセを。そしてKくんが歌を歌うスタイルでした。

今は無き水戸高島屋ローズランドでの初ライブ
音楽漬けだった専門学校時代
高校卒業後はコンピュータで音楽を作りたいというかくれた下心で、
大学へは進学せずにコンピューターの専門学校へ進みました。
専門学校では勉強した記憶ははじめの1年間だけで、
多くの曲を作ってはアルバムにまとめてクラス全員にテープを配るという、
アーティストになったような気分で4年間の最後の学生生活を送っていました。

専門学校時代に8本のオリジナルテープを制作。
クラスメートの助言で音楽的にかなり成長することができました
途中から小説家志望の同級生Yくんや一年遅れて入学してきたKくんを巻き込み、
音楽サークルの設立や校内ライブを主催するなどいろんなことを企ててました。

校内ライブの記念撮影。ブルハ・ジュンスカのコピーでドラムを担当。
右にいるのが私でとなりはのちに長年のパートナーとなるひろゆきくん
ちなみにそのころに作っていたオリジナル曲はこんな感じです。
ユーラシアの風/ほしのあつし
アンビエント・バースディ/ほしのあつし
インダストリアルミュージック/ほしのあつし
細野晴臣(YMO)にかなり影響を受けたミニマルチックなインスト曲が多く、
自分本位で実験的でもあったので退屈な曲ばかり作っていました。
まだまだ音楽的には曲作りもレコーディングも試行錯誤を繰り返している状態でした。
そしてコンビニで稼いだバイト代はすべてCDと楽器代に消え、
シンセやサンプラー、MTRなど音楽機材はどんどん増えていき、
とにかく80年代のテクノ系のCDを買いまくっていました。
YMOとYMOファミリーの人達、テクノのパイオニアであるクラフトワーク。
日本やイギリスのテクノポップやエレクトロポップやニューウェイブ。
そしてモラトリアムな20才前後の時期だけにJAPANにはかなりハマりました。

日本のバンドもので特に好きだったのはバクチクとソフトバレエ。
行きつく果ては「ガーッ」ってなり続けるだけのノイズ・インダストリアルのSPKやTGまで。
今の私の音楽的ベーシックになっているのはこの頃に聴きこんだ音楽なのは間違いないです。
プロを目指しフリーターの道へ
この頃の私は「自分は絶対にプロになれる」っていうなんの信憑性もない自信だけはありました。
就職したら先の人生がすべて決まるとの思いからフリーターで音楽を作り続けます。
かと言ってプロを目指しがむしゃらに行動するだけの情熱も行動力もなく、
その日暮らしの生活を送ることになります。

フリーターのころの自画撮り写真。
当時出始めたばかりのデジカメで撮影。とにかくひま人だったんです
不規則な生活とこれまで音楽一筋だった反動から、
音楽制作への熱がはじめて冷めてきたのもこの時期でした。
自分の才能にも限界を感じ始めたこの頃に何げなく聴いたのがデペッシュ・モード。

なんだかこれまで無理して背負い込んでいたものが体から落ちたような気がしました。
初期デペッシュ・モードの力の抜けた感のある打ち込みを聴いたことで、
また初心に帰って音楽を作り始めようと思いはじめることができました。
それで心機一転で新しいバンドを専門学校の学友のYくんと組むことに。
その【クロストーク】というバンドはのちに4人のバンド形態になり崩壊しますが、
初期デペッシュ・モードにかなり影響を受けて新たな気持ちで曲作りができた有意義なバンドでした。



結成時の2人からのちに4人体制になったクロストーク


使用シンセはROLAND JD-800とJP-8000へと変わり、
VS-880を使ったハードディスクレコーディングに進化しました
参考までクロストークとはこんな感じのバンドです。
【初期〜2人体制〜】
GOOD FRIEND/CROSSTALK
FEELING/CROSSTALK
MY FRIENDS FOREVER/CROSSTALK
"D"/CROSSTALK
【後期〜4人体制〜】
ピアス/CROSSTALK
無限なる可能性/CROSSTALK
クロストークは3本のオリジナルテープ制作と1度だけライブをやり、
そのあとの次のバンドへと形を変えていくことになります。

クロストーク最初で最後のライブ。水戸のブルームーズにて
プロデューサーはレーベルを目指す。
音楽をやっている人には大きく分けると3種類のタイプが存在すると思います。
・プレイヤータイプ
演奏することに喜びを覚えテクニック向上に命を燃やすタイプ。
・シンガーソングライタータイプ
テクニック向上および曲を作って自分の気持ちまでも伝えたいタイプ。
・プロデューサー/エンジニアタイプ
人をプロデュースすることや録音やミックスなど裏方的なことが好きなタイプ。
いちおう私もピアノを多少習っていたおかげで両手の指はなんとなく動くし、
ギターのコードもなんとなく軽く押さえることはできますが、
プロを目指すと言いながらもまじめに楽器の練習をしたことがほとんどありません。
オリジナルのテープを作り、歌詞カードに「プロデュース by あつし」と書くときこそ、
何よりもわたしの創作欲が満たされる瞬間でした。
この喜びは私にとってはギターソロをかっこよく決めた瞬間よりも、
歌声で観客を魅了する瞬間よりも、
格別にさいこーな瞬間なんです。

歌詞カードの中に誇らしげにある「プロデュース by あつし」の文字
そんな私みたいなプロデューサータイプの人ならたぶん一度はやったことがあると思うのは、
自分のレーベルを作ること。
私もレーベルへの憧れから何回か架空のレーベルを作ってきました。
もちろんアマチュアなんでそれは本当に言葉遊びみたいなものなんですが、
なんか自分の音楽がブランド化されたようなそんな錯覚を起こさせてくれる、
とても楽しいお遊びでもあったんです。
クロストークからハイ・スピード・エレクトリックへ
クロストークというバンドを経て、
世紀末の1999年からはハイ・スピード・エレクトリックというバンドをスタートさせます。
はじめは専門学校の音楽サークルの後輩のひろゆきくんと二人で始めて、
2005年からは同じ会社で働いていたTAKANORIくんを無理やり引きずり込み、
現在まで3人で活動を続けています。




テクノ系ユニットのハイスピードエレクトリックは現在も継続中です
結成はじめのころは沢山の人にバンドの曲を聴いてもらうための活動として、
例えばライブ会場やディスクユニオンでのデモテープ販売や、
じゃまーるという情報誌にリスナー募集記事をだしたり、
AMラジオ(地元の茨城放送)でバンドの宣伝してもらったりと。
ファン獲得のために自分らなりにできるだけのことをいろいろやっていました。




デモテープ販売やライブ活動。地元茨城新聞にもライブ写真が掲載されました(写真左)
ちなみにハイスピードエレクトリックはこんな感じのバンドです。
【初期】
FIRST BLUE /hi-speed electrik
MOONRAKE STAR /hi-speed electrik
MY ANGEL /hi-speed electrik
PLANETLOVE /hi-speed electrik
【中期】
ニューロティック・トラベラーズ /hi-speed electrik/span>
CANDY POP /hi-speed electrik/span>
BRAND-STYLE LOVERS /hi-speed electrik/span>
そして2007年には女性アーティストのプロデュースも実験的にやってみました。
某大手インディーズレーベルに所属していたRINKOさんです。



そしてそのとき完成した音源がこちらです。
制作はかなり苦労しましたが力強いニューウェイブロックが完成したと思っています。
DEEP RED〜深紅のバラ〜 /RINKO with hi-speed electrik
ビデオカメラを購入してからはあこがれだったプロモーションビデオの制作も開始。
撮影も編集もド素人からのスタートでしたが、
最新のPVではいちおうこのレベルです。いいか悪いかは実際にお確かめください。
↓ ↓ ↓

PLASTIC GIRL /hi-speed electrik(2017)
高校生の頃にあれだけ撮りたかった映画が、
今ではこのようにPVという形で撮影できるようになったわけです。
もう今の年齢になってしまうとメジャーデビューなんていう野心はまったくありませんし、
そんなことできるはずもありません。もう自分の実力もよーくわかってます。
しかし若いころに抱いていた大きな野心の残り火は、
40才近くになってからいよいよ違う形でメラメラと湧き上がってきてしまったのです。
SYNCLE MUSICレーベルを設立
40過ぎのオヤジが作る曲なんか聞いてくれる人なんかいるわけない。
プロならばまだしもただのアマチュアミュージシャンなのに。。。
そんな問題を解決する最良の方法は、
「かわりに若くてかわいい女の子に歌ってもらう」
なるほどこの発想は今でもそんなに間違ってはいないと思っています。
私自身ミュージシャンとしてこれとった自慢できる実績は持っていませんが、
今までつちかってきた経験や方法論を、
これからプロを目指したいという人をプロデュースすることで使えれば。
また、
自分自身表現し足りないものがまだまだいっぱい残っている。
もっと新しい曲を作りたいっていう今のところ衰えない創作意欲と、
そしてそこから少しでも収益を生み出したいという大きな野望も加わり、
新しいレーベルの形 -広告収入型インディーズレーベルとして -
2011年末にSYNCLE MUSIC レーベルを設立しました。

これまでにレーベルでプロデュースしてきた楽曲が18曲。
デジタル写真集やYouTubeの動画制作にも全力で取り組んできました。


わたしたちと関わるアーティストやモデルのみなさんが、
プロになるとは言わずも記念碑的な作品をいっしょに作れますように。
またそんな夢への第一歩のお手伝いができるように。
SYNCLE MUSIC レーベルは進化しながらこれからも運営を続けていきたいと考えています。
SYNCLE MUSIC レーベル / ほしのあつし
syncle musicのレーベルプロデューサー

ほしのあつし44才です。
普段は普通の会社員。家に帰れば双子のおてんば娘の父親。
そんな私がインディーズレーベルを作るにいたった経緯を
わたしの過去と音楽活動の歴史とともに紹介していきたいと思います。
007が好きになった小学生時代
チビでクロンボだった小学5年生の時、
なぜか父親にせがんで映画館に連れて行ってもらった映画があります。
それは『007/オクトパシー』という映画。

スーパーカーブームの頃にテレビでみた007に出てきた潜水艦になるロータスエスプリが
幼いながらも強烈な印象に残っていたのがそもそものきっかけだったと思います。

強烈な印象を与えた水陸両用のロータスエスプリ
幼少時のインパクトはその後の人生にも十分影響を与えることがありますが、
私もそのインパクトを引きずりながら成長して今では立派な007マニアに育ち上がりました。
ポップミュージックとの出会い
高校生になり当時最先端の音楽メディアであるCDが登場。
音楽といえば007のサントラを聴き始めてはみたもののやっぱり歌がないと面白みが足らない。
そこでサントラからの流れで007の主題歌を歌っているアーティストのCDを聴いてみることに。
聴いたのは「a-ha」と「デュラン・デュラン」。

これはもうガツーーンと来ましたね。まさに人生の一大転機。
特にa-haの『TAKE ON ME』。
そしてデュラン・デュランの『PLANET EARTH』と『グラビアの美少女』。
今でもポップ・ミュージックでこの曲達を超えるものはわたしの中にはありません。
初めて聴いたときからなんか聴くのが自然だったようなどこか懐かしいような。
たまたまの流れで聴き始めた80'sポップスでしたが、
生まれつき持っていただろう趣向とピッタリとマッチした瞬間でした。
今度はYMOとの出会い
高校2年生の頃はそれはそれは空前のバンドブーム。
それこそ老若男女、学生も大人も坊主もみんなバンドをやった時代。
深夜眠い目をこすりながら「イカ天」を観ては「自分で曲を作りたい」って漠然と考えはじめていました。
ちょうど同じころ「CDでーた」という今はなき雑誌でYMOの特集記事を見ました。

YMOというのは全然当時知らなかったのですがなぜか心に引っかかるものがあり、
うちの兄貴にYMOって何?って聞いたら「雷電と胸キュンだよ」って教えてくれました。
ベストテンとかをよく見ていたので『君に胸キュン。』やライディーン(雷電)のメロディーはすぐに思い出せましたが、
なぜか理屈抜きにこの時に
「YMOは絶対に聴かなくてはならない」
って思ったんです。 ・・・・理由はなんでだかわかりませんが。
今思えばたぶんそこに運命的なものを感じたからなのかもしれません。
それで急いで買ってきたのが2枚組ベスト盤CD『SEALED』。

そしてこのとき知ったシンセサイザーという楽器の音こそが、
a-haやデュラン・デュラン、YMOに共通していたピコピコしている電子音であり、
私が生まれつき持っていたであろう心に響く音の趣向の正体だったんです。
高校3年生はじめてバンドを結成
当時わたしには謎の楽器だったシンセサイザー。
実は昔からの友達のKくんが所有しユニコーンのコピーをやっていると判明。
しかもご好意によりお試しとして貸してもらえることになった。
そのとき借りたシンセがROLANDのD-20というオールインワン・シンセサイザー。

オールインワン・シンセサイザーとは、
シーケンサーとドラムマシンを内蔵しそれ1台で演奏が作れてしまうというタイプのもの。
それからは説明書を見ながら独学で曲を作り始めました。
音楽を聴く前はずっと自分で映画を作りたいと思っていましたが、
映画を作るには人を何人も集めなければなりませんし、
当時のビデオカメラは高額だったため高校生に買えるような代物ではありませんでした。
ところが音楽ならばこのシンセ1台で一人で曲が作れてしまう。
このときは寝る間も惜しんでシンセサイザーに熱中して、
はじめてとなる4曲入りのオリジナルテープを一気に完成させました。


はじめて買ったシンセはYAMAHA V50とEOS YS100。
まだカセットMTRの古き良き時代です。
そしてシンセを貸してくれたKくんの誘いで二人でバンドを結成しライブにも出演。
そのときの演奏はユニコーンとYMOのコピー。
私が打ち込みを流しながらシンセを。そしてKくんが歌を歌うスタイルでした。

今は無き水戸高島屋ローズランドでの初ライブ
音楽漬けだった専門学校時代
高校卒業後はコンピュータで音楽を作りたいというかくれた下心で、
大学へは進学せずにコンピューターの専門学校へ進みました。
専門学校では勉強した記憶ははじめの1年間だけで、
多くの曲を作ってはアルバムにまとめてクラス全員にテープを配るという、
アーティストになったような気分で4年間の最後の学生生活を送っていました。

専門学校時代に8本のオリジナルテープを制作。
クラスメートの助言で音楽的にかなり成長することができました
途中から小説家志望の同級生Yくんや一年遅れて入学してきたKくんを巻き込み、
音楽サークルの設立や校内ライブを主催するなどいろんなことを企ててました。

校内ライブの記念撮影。ブルハ・ジュンスカのコピーでドラムを担当。
右にいるのが私でとなりはのちに長年のパートナーとなるひろゆきくん
ちなみにそのころに作っていたオリジナル曲はこんな感じです。
ユーラシアの風/ほしのあつし
アンビエント・バースディ/ほしのあつし
インダストリアルミュージック/ほしのあつし
細野晴臣(YMO)にかなり影響を受けたミニマルチックなインスト曲が多く、
自分本位で実験的でもあったので退屈な曲ばかり作っていました。
まだまだ音楽的には曲作りもレコーディングも試行錯誤を繰り返している状態でした。
そしてコンビニで稼いだバイト代はすべてCDと楽器代に消え、
シンセやサンプラー、MTRなど音楽機材はどんどん増えていき、
とにかく80年代のテクノ系のCDを買いまくっていました。
YMOとYMOファミリーの人達、テクノのパイオニアであるクラフトワーク。
日本やイギリスのテクノポップやエレクトロポップやニューウェイブ。
そしてモラトリアムな20才前後の時期だけにJAPANにはかなりハマりました。

日本のバンドもので特に好きだったのはバクチクとソフトバレエ。
行きつく果ては「ガーッ」ってなり続けるだけのノイズ・インダストリアルのSPKやTGまで。
今の私の音楽的ベーシックになっているのはこの頃に聴きこんだ音楽なのは間違いないです。
プロを目指しフリーターの道へ
この頃の私は「自分は絶対にプロになれる」っていうなんの信憑性もない自信だけはありました。
就職したら先の人生がすべて決まるとの思いからフリーターで音楽を作り続けます。
かと言ってプロを目指しがむしゃらに行動するだけの情熱も行動力もなく、
その日暮らしの生活を送ることになります。

フリーターのころの自画撮り写真。
当時出始めたばかりのデジカメで撮影。とにかくひま人だったんです
不規則な生活とこれまで音楽一筋だった反動から、
音楽制作への熱がはじめて冷めてきたのもこの時期でした。
自分の才能にも限界を感じ始めたこの頃に何げなく聴いたのがデペッシュ・モード。

なんだかこれまで無理して背負い込んでいたものが体から落ちたような気がしました。
初期デペッシュ・モードの力の抜けた感のある打ち込みを聴いたことで、
また初心に帰って音楽を作り始めようと思いはじめることができました。
それで心機一転で新しいバンドを専門学校の学友のYくんと組むことに。
その【クロストーク】というバンドはのちに4人のバンド形態になり崩壊しますが、
初期デペッシュ・モードにかなり影響を受けて新たな気持ちで曲作りができた有意義なバンドでした。



結成時の2人からのちに4人体制になったクロストーク


使用シンセはROLAND JD-800とJP-8000へと変わり、
VS-880を使ったハードディスクレコーディングに進化しました
参考までクロストークとはこんな感じのバンドです。
【初期〜2人体制〜】
GOOD FRIEND/CROSSTALK
FEELING/CROSSTALK
MY FRIENDS FOREVER/CROSSTALK
"D"/CROSSTALK
【後期〜4人体制〜】
ピアス/CROSSTALK
無限なる可能性/CROSSTALK
クロストークは3本のオリジナルテープ制作と1度だけライブをやり、
そのあとの次のバンドへと形を変えていくことになります。

クロストーク最初で最後のライブ。水戸のブルームーズにて
プロデューサーはレーベルを目指す。
音楽をやっている人には大きく分けると3種類のタイプが存在すると思います。
・プレイヤータイプ
演奏することに喜びを覚えテクニック向上に命を燃やすタイプ。
・シンガーソングライタータイプ
テクニック向上および曲を作って自分の気持ちまでも伝えたいタイプ。
・プロデューサー/エンジニアタイプ
人をプロデュースすることや録音やミックスなど裏方的なことが好きなタイプ。
いちおう私もピアノを多少習っていたおかげで両手の指はなんとなく動くし、
ギターのコードもなんとなく軽く押さえることはできますが、
プロを目指すと言いながらもまじめに楽器の練習をしたことがほとんどありません。
オリジナルのテープを作り、歌詞カードに「プロデュース by あつし」と書くときこそ、
何よりもわたしの創作欲が満たされる瞬間でした。
この喜びは私にとってはギターソロをかっこよく決めた瞬間よりも、
歌声で観客を魅了する瞬間よりも、
格別にさいこーな瞬間なんです。

歌詞カードの中に誇らしげにある「プロデュース by あつし」の文字
そんな私みたいなプロデューサータイプの人ならたぶん一度はやったことがあると思うのは、
自分のレーベルを作ること。
私もレーベルへの憧れから何回か架空のレーベルを作ってきました。
もちろんアマチュアなんでそれは本当に言葉遊びみたいなものなんですが、
なんか自分の音楽がブランド化されたようなそんな錯覚を起こさせてくれる、
とても楽しいお遊びでもあったんです。
クロストークからハイ・スピード・エレクトリックへ
クロストークというバンドを経て、
世紀末の1999年からはハイ・スピード・エレクトリックというバンドをスタートさせます。
はじめは専門学校の音楽サークルの後輩のひろゆきくんと二人で始めて、
2005年からは同じ会社で働いていたTAKANORIくんを無理やり引きずり込み、
現在まで3人で活動を続けています。




テクノ系ユニットのハイスピードエレクトリックは現在も継続中です
結成はじめのころは沢山の人にバンドの曲を聴いてもらうための活動として、
例えばライブ会場やディスクユニオンでのデモテープ販売や、
じゃまーるという情報誌にリスナー募集記事をだしたり、
AMラジオ(地元の茨城放送)でバンドの宣伝してもらったりと。
ファン獲得のために自分らなりにできるだけのことをいろいろやっていました。




デモテープ販売やライブ活動。地元茨城新聞にもライブ写真が掲載されました(写真左)
ちなみにハイスピードエレクトリックはこんな感じのバンドです。
【初期】
FIRST BLUE /hi-speed electrik
MOONRAKE STAR /hi-speed electrik
MY ANGEL /hi-speed electrik
PLANETLOVE /hi-speed electrik
【中期】
ニューロティック・トラベラーズ /hi-speed electrik/span>
CANDY POP /hi-speed electrik/span>
BRAND-STYLE LOVERS /hi-speed electrik/span>
そして2007年には女性アーティストのプロデュースも実験的にやってみました。
某大手インディーズレーベルに所属していたRINKOさんです。



そしてそのとき完成した音源がこちらです。
制作はかなり苦労しましたが力強いニューウェイブロックが完成したと思っています。
DEEP RED〜深紅のバラ〜 /RINKO with hi-speed electrik
ビデオカメラを購入してからはあこがれだったプロモーションビデオの制作も開始。
撮影も編集もド素人からのスタートでしたが、
最新のPVではいちおうこのレベルです。いいか悪いかは実際にお確かめください。
↓ ↓ ↓

PLASTIC GIRL /hi-speed electrik(2017)
高校生の頃にあれだけ撮りたかった映画が、
今ではこのようにPVという形で撮影できるようになったわけです。
もう今の年齢になってしまうとメジャーデビューなんていう野心はまったくありませんし、
そんなことできるはずもありません。もう自分の実力もよーくわかってます。
しかし若いころに抱いていた大きな野心の残り火は、
40才近くになってからいよいよ違う形でメラメラと湧き上がってきてしまったのです。
SYNCLE MUSICレーベルを設立
40過ぎのオヤジが作る曲なんか聞いてくれる人なんかいるわけない。
プロならばまだしもただのアマチュアミュージシャンなのに。。。
そんな問題を解決する最良の方法は、
「かわりに若くてかわいい女の子に歌ってもらう」
なるほどこの発想は今でもそんなに間違ってはいないと思っています。
私自身ミュージシャンとしてこれとった自慢できる実績は持っていませんが、
今までつちかってきた経験や方法論を、
これからプロを目指したいという人をプロデュースすることで使えれば。
また、
自分自身表現し足りないものがまだまだいっぱい残っている。
もっと新しい曲を作りたいっていう今のところ衰えない創作意欲と、
そしてそこから少しでも収益を生み出したいという大きな野望も加わり、
新しいレーベルの形 -広告収入型インディーズレーベルとして -
2011年末にSYNCLE MUSIC レーベルを設立しました。

これまでにレーベルでプロデュースしてきた楽曲が18曲。
デジタル写真集やYouTubeの動画制作にも全力で取り組んできました。


わたしたちと関わるアーティストやモデルのみなさんが、
プロになるとは言わずも記念碑的な作品をいっしょに作れますように。
またそんな夢への第一歩のお手伝いができるように。
SYNCLE MUSIC レーベルは進化しながらこれからも運営を続けていきたいと考えています。
SYNCLE MUSIC レーベル / ほしのあつし
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